2014年11月23日

『軍艦岬』(と割栗岬)についてのメモ

そのうち調査する際に備えるメモ。
要修正。改定。推敲。

札幌市の中央区南部の上山鼻と南区川沿のあたりに軍艦岬と呼ばれる地形があるようだが、資料によって南31条西11丁目付近について書いている場合と、川沿1条1丁目付近について書いている場合があり正確な位置がよく分からない。

■南31条西11丁目付近について書いている。またはそれらしいサイト。
藻岩山 - Wikipedia
百花繚乱@シニア 月寒中央から軍艦岬を歩く
札幌原人著 札幌古地名考 その2 「軍艦(ぐんかん)岬(みさき)」の巻(1977.4.bP)
軍艦岬 札幌市 謎 ミステリー 北海道




■川沿1条1丁目付近について書いている。またはそれらしいサイト。
本願寺道路 - wikipediaの「ルート」の稿。
『但し、現在は先端が掘削され、道路拡張とカーブの緩和化が進んでいる。』とある。
札幌軟石物語 第二十一話:札幌軟石の運搬4



でも、多分南31条西11丁目付近のことだと思う。
以前は北の方から見えたいたらしいから。
川沿の方は南31条に隠れて見えない。

2014/12/06追記
と思いつつ、別のことを調べていたら、#32 藻岩山 - 北海道歴史探訪 - コラム - なまら北海道に、『国道230号線を南下して軍艦岬の下を通り過ぎ、藻岩山の東麓の丘陵地帯と、豊平川の狭間を過ぎ、ふたたび川沿いに接する割栗岬に至るまでの地域を藻岩下と呼び、昔は上山鼻(かみやまはな)と呼ばれていました。』とあるのを見つける。
藻岩山の東麓の北の岬を『軍艦岬』、藻岩下を挟んで南の岬を『割栗岬』と言うのだそうだ。
これは凄いと割栗岬を調べようとしたら、あっさり藻岩山 - wikipediaがヒットし即がっかりする(なんだ残念、常識か、と言うほど他にはヒットしないのですが)。
なぜ割栗岬というかについては、藻岩下から : 札幌うぉーく点描に説明があるので、素晴らしい。
『割栗岬は、その名のとおり春先などに崖の上から建築の基礎に使う割栗状の小石が道に落ちることから名付けられた』とあるのでそうなのであろう。国道230号線を下ると今でも採石場があるのでなんとなくそんな感じではあります。別の山ですけれども。
割栗石 - wikipediaを読んで想像すると、200〜300mmくらいの大きさの石が落ちてくると言う事なのでそれは危険だ。
あと、どうも割栗という言葉は、ほぼ割栗石にしか使わない言葉のようでもあり面白い。

ここで興味深いのは、軍艦岬が見た目の命名なのに対し、割栗岬が実際にその場に行って起こったことを元に命名されていることであろう。
札幌市中心部から見える軍艦岬に先に名前が付いたのに対し、割栗岬はほぼ豊平川の西岸に渡るか山鼻の南部まで行かないと見えずらい場所なので、軍艦岬と名前の付いた岬が先にあり、それを越えた先の似たような地形を区別するために後から名前を付けたのではないかと想像する。
しかし、割栗岬には見た目で名前を付けるような特徴は思いつかなかったのだろう、それならば地名から付けるのが普通だと思うのだが、『上山鼻(現在の藻岩下)』や『八垂別(現在の川沿)』を名前にしなかったのは何故だろうか、どちらかに配慮したのだろうか。

それよりも割栗石と名づけそれなりに定着した点について考えるべきなのか。
割栗石なんて普通知らないし思いつかない(と思う)はずなのに定着したのはなぜかと考えると、真っ先に思いつくのは付近にある採石場についてでしょう。
なにしろ、この前を通る道路が明治時代からある砥石山の採石場から中心部に石材を輸送していた現国道230号線(本願寺街道の一部)なのですから。
実際に硬石山 - wikipediaは明治5年から採石を始めており、すでに札幌中心部への道は明治2年ころにはできていたようです。したがって採石場関係者がこの辺りに住んで、輸送のため頻繁に通行していたでしょう。それならば割栗石を知っていてこの名前が付いたと想像でき、納得が行くように思います。
むしろ割栗岬と名づけたのは採石場関係者だと考えるほうがすっきりするように思うので、これで正解じゃないかと思いますがどうでしょうか。

あとは軍艦岬と名付ける元になった軍艦とはなんであったかについて考える事によって、こう呼ばれる事になった年代を推測出来そうですが、それはまた。


posted by furusoma at 00:57| Comment(1) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『平岸街道』についてのメモ

そのうち調査する際に備えるメモ。
要修正。

札幌Now 平岸通 1(平岸・澄川) に詳しい説明がある。
h平岸通 - Wikipediaも参照。

調査の必要があると思われる点は下記である。
・いつから『平岸街道』と呼ばれ始めたか。
h平岸通 - Wikipediaの『1871年(明治4年)、開拓使が仙台伊達藩重臣・水沢城主・留守氏(伊達氏一門)家中62戸202名の開拓者を入植させるため、ピラ・ケシ・イ(平岸)の原生林の中に南北方向延長1,400間(約2,500m)、幅員10間(約18m)の直線道路を開削したのが平岸街道の起源である。』は正確にどこであったか。
・『本願寺街道』との接続点とその間の開削時期。
・国道36号線の豊平4条6丁目から豊平9条9丁目までの間を平岸街道と呼んでいたことが有ったのか。

ここは本当に平岸街道だったのか?

近代デジタルライブラリー - 温故写真帖. 第1集(札幌) コマ番号26に明治4年ころと思われる写真が掲載されている。
ここでは平岸街道とは記載されていない。実際の所この雰囲気はちょっと街道なんてものではないとも思う。
posted by furusoma at 00:30| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月22日

『本願寺街道』についてのメモ

そのうち調査する際に備えるメモ。
要修正。

wikipedia本願寺道路に色々書いてあるので参考に。

明治3年オサツベツ(伊達市長和)から札幌(旧平岸の範囲内、現澄川付近)まで、本願寺法主大谷光瑩法師と仲間たちによって作られた札幌市石山までの、ほぼ現国道230号線と水源池通の一部、その他を通る道。
現澄川部分のルートがいまいちしっくりこない。
それと、現国道230号線の南3西11丁目から、南下する部分についても本願寺街道と呼ぶ場合があるようだが、同じチームによるものかは不明。
またこの道が当初どこで豊平川をわたっていたのか気になるが不明。
なおwikipedia山鼻
によると、明治3年に建設したことになっているが、同じチームによるものだとしたら、とんでもない能力だったことは間違いない。

呼び名だが、
『本願寺街道』
『本願寺道路』
『有珠街道』
『虻田県道』
と呼ぶ場合があるようだ。
(虻田県道の表記は『定山渓鉄道案内』11ページにあるが、本当に本願寺街道全体をそう呼んでいたのだろうか。)


wikipedia本願寺道路の「ルート」の稿の軍艦岬の位置については疑問がある。
いろいろ調べてみると資料によって南31条付近について書いている場合と、川沿1条1丁目付近について書いている場合があり正確な位置がよく分からない。何かそういうことを書くのであれば住所を書くべきなのに何故書かないのか。
昔の事を知っている人ほどそういう傾向があるように思うが、このように後でわからなくなるよ。

という風に不明点が多々あるので、おいおい調べるのだろうか?
posted by furusoma at 03:24| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。